就活に思い悩んだから死ぬわけではありません。むしろ、仕事に関してはどう転んでも私は未来に希望を抱いているのです。ただ、就活がきっかけになったのは確かです。私が死ぬのは、就活を通じて、自分の性格や、自分のやりたいこと、やるべきことと向き合った結果、死んでしまいたいと思ったからです。
 
約四半世紀生きてきましたが、ただの一度だって自分の将来や人生と真剣に向き合ってきませんでした。そんな人間が、ようやく頑張って向き合うとしているわけですが、自分が嫌になります。なんの方向性もなく、なんの夢もない自分が生きている意味などないなと思うわけです。自分の性格を認識しようとしてもわからないのです。私のやりたいことも、人生をかけて成し遂げたいことも、わからないのです。社会に貢献したいなんて一ミリも思いません。やりたいことが思い浮かぶには浮かぶのですが、薄っぺらく、自己中心的で、「本当にやりたいことなのか」と言われたらわからなくなります。
 
ただ正直死にたくはないです。私は、今少しでも楽しいことがあるのなら死なないと、そう思って生きてきました。まだ見たい映画もたくさんあるし、明日投稿されるyoutubeの動画だって楽しみです。やりたいゲームだって、読みたい漫画だって、行きたい場所だって。まだ死ぬには世の中に楽しいことがあふれています。しかし、それは私の周りのことであって、私自身にはもう生きている意味はないように思えるのです。
 
姉と自身の性格や人生について話したのですが、姉の話は私の考えと非常に近いものでした。私自身の意思などどこにあるのでしょう。私は私の意思を持っていると思っていたけど、それはきっと姉の意思だったんでしょうね。結局私は、姉の真似をするおもちゃに過ぎないのです。姉に憧れ、姉の真似をし、姉に影響を受けて生きてきた私は、自身で考えることを放棄してきたのです。そのくせ姉のようなすごい人にもなれず、姉のような努力家にもなれず、姉が抱いていた人生の苦しさに寄り添うことすらできず、そんな私に生きている意味があるわけないでしょう。それを自覚したので死にたいと思いました。姉は何も悪くないです。
 
何も考えずに生きるのはすごく楽で、楽しいです。でもその代わり、向き合って考えようとした瞬間、向き合ってこなかった莫大な時間がのしかかってきて、虚無感でいっぱいいっぱいになります。逃れるために、また、考えるのを放棄します。きっとそのまま死ねれば楽なのでしょう。我に帰る前に死にたいんです。いつか破綻する前に、楽しいまま死んでしまいたい。
 
私が死にたいのは耐え難い苦痛が原因ではありません。ただの虚無感です。いじめを受けているわけでも、家庭環境が悪いわけでもありません。むしろ幸せです、とても楽しい毎日です。そして、未来もきっと明るい。けど私には私の意思がない。昔から感じていたことですが、私の精神は私の中にないのです。ふわっとすこし宙に浮いた場所にあって、自分のことを自分のことだと思えないのです。それは中学生で転校した時に、毎日が苦痛すぎた結果、その苦痛からなんとか逃れるために生み出した私の処世術なのですが、もう私の精神を私の中に引き戻すことはできないみたいです。からっぽなんです、もう10年近く。寝たり食べたり、面白いものを見たり新しいことを知ったり、そういう本能的な楽しさを享受することはできます。でも、思考がないんです、自分自身を思考することが。からっぽなんです、虚無なんです。自分が虚無であることを忘れているうちに死なせてください。
 
でも死にたいは嘘です。まだ楽しいことがたくさんあるので死にたくはないです。それに死んだら家族が悲しむのはもう、それは痛いほどわかっているので死にたくはないし死なないです。でも死にたいんです。この気持ちを表現する言葉が「死にたい」しかないんです。この人生の中で死にたいに近い感情を抱いたことは一度もないのですが、今のこの心境を一番よく表す言葉が「死にたい」しかないんです。何か、いい言葉を私が知らないだけかもしれません。死にたい、しかいい言葉が見つからないので死にたいと言っていますが、死にたくはありません。世の中で、大した理由もないのに死にたいと言っている人の気持ちを、今までは全く理解できず、むしろ馬鹿にしていたりイラっとしていた節があったのですが、きっとこんな気持ちだったのだろう、あるいはこれのもっとひどい状態だったのだろうと、今ではわかります。きっとそういう人たちも「死にたい」しかいい言葉が見つからなかったのかなと思います。