INFPは感情の生き物。

 

感情に従って生きることは悪でなはく、むしろそうやって生きていくべき。生きやすくなる唯一にして最大の方法。

 

なることなすこと全て、自分の「感情」に正直になるように決断し、行動すればよい。

 

「やりたいこと」「好きなこと」「理想」が生まれた時は、一時の感情ではなく、目的達成をしたいという感情に従う。(その感情のもとで、計画や努力ができる)

 

他者の批判的なフィードバックは、人格否定ではない。不変の事実でもない。現状を評価した上で成長を期待した可変の意見。

 

自己と他者の境界線を持つ。自分が気持ちよく生きる線引きをして、必ず守る。「こうしてあげた方がいい」「こうしないと相手を傷つける」などの感情に支配されない。最初はきついけど回数をこなし慣れる。

 

随一の「理想」を持っている。だからこそ、「理想を現実に変える力」があればものすごいことができる。

 

 

自分の性格を「理想」で塗りつぶさない。自分は本当はAだけど、理想としてBがよいからAに蓋をする、というのは絶対ダメ。自分の好きなこと、嫌いなことを「自覚」して初めて、好きなことを選択したり、嫌いなことをどうやって転換しようかという思考になる。それを繰り返していけば、自分に正直になる。自分らしいこと、自分を満たすもの、で自分を一杯にすることができる。

 

自分が自分を失ったのはこれだ。INFPであることを「自覚」した今、一歩を踏み出したのかもしれない。

将来に夢も希望もないというか、自分がどうなりたいとかどうやって生きていきたいとかそういうものがなくて、

だけど、ないからといって自分の心が曇っているかというとそんなことはなくて、毎日生きていて楽しいんだけど、

そういう自分のなすべきこととか達成したいことを作らないと、歳を重ねてから絶望になりそうで怖い。

高齢になってから、若い時しかできなかったことに気がついて後悔するのが怖いんだけど、だけど今べつに生涯をかけてやりたいこととか、なりたい自分とかないからどうしようもない。

年度末だし、今やっていることの区切りができて、私の人生は次のフェーズに入るというか、大きな転換点を迎えそうなわけで、その前に死んでおきたいなと思ったり、思わなかったり。

この一人暮らしの部屋で首を括って死んで、ここで全てを終わらせたいと思うと同時に、それを知った私の知り合いがどんな反応をするのかななんて、想像して気持ちが悪くなる。

自分が死んだ後を妄想するのって不思議な気持ちになる、気持ち悪いけど、ちょっと想像したくなる。

みんなが何を考えて生きているのか、わからない、当たり前だけど。

この世の何人の人がなりたい自分を確固として持っているのか。

この世の何人の人が生涯を捧げてやりたいことを持っているのか。

意外と少ないんじゃないの?と思ってるんだけど、見当もつかない。

自分だけが虚無なのか、大抵人はみんな虚無なのか、わからない。

心が晴れやかなまま、早めに死にたいなあ

この世の中は何もかも全てが限界なんだなって思った。

 

今いる人間も幸せにできないのに、新しい命なんかいない方がいいと思う。

しかし、新しい命がなければどんどん切迫していくのも事実。

でもそれはつまり、後の世代に負担を押し付けることが決定してるのであって、

もっと静かに、徐々に、器を小さくして、満たされたまま緩やかに破滅できないものかと思う。

 

死ぬことが、もっと苦しいことじゃなくなればいいのにな。

誰にでも、いつでも、起こりうることが、自分だけでなく周りの人間もひどい苦痛に苛むものだなんて、おかしいよな。

苦しみから逃れるための死をどうにかして許容できないか。

「それではみなさん、さようなら。ばいばい。」って言って死ねるような死生観にみんながならないかな。

延命なんてせずに、死ぬべくして死ぬことが幸せだって思える世の中にならないかな。

人間の生死のサイクルはもっと早い方がいいのかも、人間50年の時代に戻ってさ。

50年生きようが70年生きようが、変わらないって。

人間はその一生で何かを成し遂げるなんて不可能なんだから。

この長い長い人類の歴史の上で、個人の数十年なんて何もできやしないのだから。

いわば、延命して生きながらに死んでるような人はさ、虚無なのかもしれないよ。

周囲の人はその人が生きててくれて嬉しいこともある思うけどさ、別に、死ぬべくして死ぬ方が嬉しいと思える世の中だったらいいのに。

別れなんて誰にでもいつか来るのだから。

生きてることが善、正しい、なんて価値観ぶっ壊れてしまえばいいのに。

そんなもんがあるから、介護疲れで家族を殺す人が生まれるんだよ。

いや、それは違うか。この問題はそんな単純なことじゃないかもしれない。

衰えゆく自分はきっと辛いんじゃないかなと、思うけど。

徐々に衰えていく感覚がわからないうちに死んだ方が苦しくないんじゃないか。

高齢者が車を運転できなくなったのを認めたくない気持ちもわからなくはないし、

衰えてもなお、死のうとはならないのもわかる。

これまで常識だった価値観を、現代の常識にアップデートするのはものすごく大変なことだと思う。

それが当たり前に求められる。常識だから。

自分が当事者になった時もきっと、そう思うだろう。

それに、自分の親や祖父母が死んでしまうことなんて、考えただけでも苦しくて死にそうだ。

だから、そういう感情がぶっ壊れてしまえばいいのに。

共にある今に全力で幸せを感じ、死ぬときは「さよなら」と言って別れ、そのあとは記憶だけを胸に秘めて、それすらも幸せだと感じられればそれが一番いいのにな。

死をあまり安易にしすぎると、殺人が増えそうだから、それは問題だけども。

 

転校して別れた友達と、もう10年以上連絡を取っていない。

生きているのかもわからない。

この先も会うことはないだろう。

あの別れは、結局のところ「死」と何も変わらないじゃないか。

だから、別れの日は泣いたわけだが、転校する前もした後も死ぬほど泣いたわけだが。

でも、生きてるに違いないと思うから別に私は辛くない。

もう別れた時ほど思い入れも強くない。

そうだ、シュレディンガーの猫がいいのかもしれない。

意図的に会えない状態を作り出して、家族とは違う新しいコミュニティをそれぞれ作って、

生きているのかも、いつ死んだのかもわからない状態で、でもきっと生きてるだろうという希望的観測の中で暮らせば苦しくないかもしれない。

 

深く関係を作るから、別れが辛くなる。

だったら深い関係なんか作る必要はない。

その瞬間、瞬間を楽しめるだけでいいじゃないか。

それ以上の関係なんかいらない。

恩とか、信頼とか、絆とか、そんなもんいらねんだよ。

 

介護問題だって、人手不足だって、低所得だって、幼稚園が足りないのだって、ホームレスだって、この世の中が限界だからじゃないのか。

これだけの人口を幸せにして、満たすだけの許容量がこの世の中には既にないからじゃないのか。

 

じゃあお前が死ねと言われても、怖くてできないから、結局はそういうことなんだなあ。

みんなそうだから、そしてみんな自分の大事な人には生きていて欲しいから、そして他人の子よりも自分の子の方が大事だから、しょうがないんだ。

どうしようもない。この世の中は、人間がみんな幸せになれるようにはできていない。

 

じゃあ考えたって無駄だ。

そもそもなんの知識もない、思考力もない私のような人間が何か考えても、虚無にすぎない。

じゃあ考えるだけ無駄だから、考えない方がいい?

考えるのは苦しいから。

こういう遣る瀬無い思いを、創作にぶつけたりするんだろうけど。

ただのその場しのぎの産物で、何の解決にもなりゃしない。

どうしようもできないから、何も関係ないところにぶつけてるだけの八つ当たり。

どんなすごい作品も、全部ただの八つ当たりだと思うと、一体何の価値があるのだろうか。

そもそも姉との比較でしか自己を形成できないことが問題だ。

姉と比べて、お姉さんと比べて、何回言われたことか。

親からだって、先生からだって、自分自身からだって。

姉の方を先に知っている人間はみんな、姉との比較で私を捉えてきた。

 

姉よりも社交性があって、世渡り上手で、明るくて。

じゃあ社交性を失ったら?暗くなったら?私という自己は何にもない空っぽになってしまう訳ですか?

 

お姉さんと比べて社交的って、そんな狭い世界で自分を定義されて。

私は別に明るくなんかないのに、明るい人間なのかと勘違いして、明るくなろうとしてもきっと無理があって、もう何年も明るい自己なんかどこにもねえ。

それは転校したことが原因で、後天的な、ソーシャル的な要因。

そんな一つの出来事で変わってしまう「性格」や「自己」や「人柄」なんて脆いもんだろ。

性格なんて他者との比較でしか語れないくせに、何がそんなに重要なのかわからない。

誰も性格なんて定義できないんだよ。生きてる社会が一人一人違うのだから。

なのに性格で人間を捉えようとしないでほしい。とこの社会に文句を言ってみる。

なぜ能力ではダメなのか?能力もまあ相対的な評価でもあるけど、少なくとも人格や性格なんかより圧倒的に信頼のおけるものだと思うが。

嗜好だって、ほんの些細なきっかけで変わるのだから、嗜好で人間を語るのもどうなのか。まあ傾向はあるかもね。

 

クソクソクソ。私が私自身を姉との比較でしか形成してこなくて、きっと周りの大人もそうだったから、私はおかしくなってしまった。自己がわからなくなってしまった。

今じゃ虚無だ。何もない。縋っていた頼りない糸はズタズタだ。

苦しい。姉のいない世界では、私は自己を定義してもらえない。

 

矛盾している。姉との比較なんて偽りの自己形成なのに、しかし、姉がいないと自己を定義してもらえない。どうしようもない。虚無でつまらなくて、特記事項のない、むしろ特徴にはとても挙げづらいマイナス面しか持たない。

 

でもマイナス面でもいいと思ってしまっている。自己が自己を認識できる要素ならマイナスだっていい。プラスじゃなくたって、他者と、姉と差別化できるなら悪い点だっていい。とにかく自分はこういう人間なんだという確固たるアイデンティティが、どこかに何かほしいだけなんだ。

 

そんな思想だから、自分を良くしようという意識がなくなる。マイナスでもいいからと思えば思うほど、マイナスに偏る。どうしようもないクズになる。そして自己が嫌いになる。

 

矛盾している。短所でいいからとにかく自分自身がほしいと思いながらも、その短所のせいで自己をどんどん嫌いになる。

 

苦しい。どうしようもない。どうしたらいいかわからない。

 

長所をのばせよバカ。でもそもそも今の私には長所もなければ。そうなりそうな種すらない。

何を伸ばせばいいのかわからない。伸ばせる依り代がない。適当にこうなろうと思っても、自分とあまりにも乖離していると、長く続かない。そうはなれない。無理がでる。

 

自己じゃない、偽りでしかない。どこかが破綻し、ボロが出て、心がしんどくなって、結局最初からやり直しだ。

 

完全に詰んでる。どうしようもない。生きてるだけで自己矛盾してどんどん自己嫌悪になる。

それが辛いから深く考えるのをやめる。どんどんドツボにはまっていく。嫌いになっていく。

自分の苦しさなんてただ軽いものだ。

私が甘えてるだけだ。

人々の苦しみはもっと過酷なものだ。

虐待、いじめ、過労、束縛。

私はこんなにも恵まれた環境にいるのに、甘えているだけだ。

これまでは、自分の苦しさを表に出すことも嫌いだったし、恥ずかしいしカッコ悪いし、そうたいして苦しくないし、誰にも何にも言わずに、SNSにもブログにも何も出さずに暮らしてきた。

 

そもそも苦しみと向き合う行為を拒否していたので、自分は苦しみも悩みも何もない楽観的で幸せな人間だと思っていた。

 

その結果がこの虚無だ、空虚だ。

こんなことで苦しい、辛い、死にたいなんて言ってる自分が恥ずかしい。

本当は死にたくないくせに。

じゃあ今から死ねます、楽に死ねます、何も考えずに死ねます、っていうボタンを渡されても、押せないくせに。

苦しいって言いながらほんとは苦しくないくせに。

悲しんでても、頭の中では早く漫画読みたいって思ってるくせに、小説書きたいって思ってるくせに。

死にたい死にたいなんて、この20数年間一度も思ったことないのに、この数カ月で何度も何度も思って、でもそれは本心じゃない。

客観的に見て私みたいな人間は死んだほうがいいと思ってるけど、主観的に見て死にたいと思ってない。

から死ねない。

恥ずかしい。こんなことで死にたい死にたい言ってしまう自分が情けない。

こんなことどころか、何もない。

何にも起こってないのに死にたがってる。

意味不明。

クソ。

何も考えたくない。

ニートになりたいのかも。

社会と何も接続せず、適応せず、ただ堕落と快楽を貪るだけの人間になりたいのかも。

でもそれはダメだと理解している。

家族に迷惑をかけるし、何よりニートになる自分の方が恥ずかしい。

ニートになりたいけど、なりたくない。

また矛盾してる。

全ての現象において矛盾の意思が生じている。

意味不明。

死んでしまえ。

でも死なない。

クズ。

結局クズはクズのまま生きていくしかないってことだね。

死んだ方がマシなのに多分ずっと生きてるし。

でも多分20年後、30年後、どんどん苦しくなっていくよ。

先のこと考えたら早いところ死んどいた方が楽だと思うよ。

でも私は先のことなんて考えられないクズなので死にません。

20年後、30年後に至っても自分が可愛い臆病者なので死にません。

ホームレスになっても多分怖くて死ねません。

衰弱して死ねるかどうかもわかりません。

将来のことも先のことも考えるのは嫌いなのできっと破滅します。

でもどうやって破滅するのかもわかりません。

 

自分と向き合うようになってたら苦手って言葉をたくさん使うようになりました。

そしたら母親から

「苦手苦手ばっかりじゃん。」

「克服してかないとダメだよ。」

って言われました。

じゃあ苦手じゃないです。苦手は言葉の綾です。

苦手じゃなくて、嫌いです。

嫌いだからやらないんです。

嫌いなことをなんでやらないといけないんですか?

目指す場所もないのに、夢も目標もないのだから、嫌いなことに取り組み原動力がないです。

なんで嫌いなことしなきゃいけないの?

破滅してもいいって言ってんじゃん。

お金と苦労と時間をかけてくれた親には申し訳ないけど、私はもう破滅していくしか道のないクズなんですよ。

あなた方には優秀な一人娘がいただけです。

優秀な一人娘とクズ人間を比べないでください。

優秀な娘が第一子だったからってそれが普通だと思わないでください。

強要しないでください。

嫌いなことはやりたくないクズですが、変えられないので認めてください。

少しでも傷つけないように、なるべくクズであるところは見せないように努力します。

でもやりすぎると自己を失うので、これまでよりはクズである本性を出すと思います。

その度に親は私を自己否定するでしょう。

私のクズである自己を。

そうなったらどうしましょうね。

親は多分折れなくて、でも私は折れるとまた自己を失いので折れたくないです。

つまり、クズであることを見せなければいけないような話をしなければいいわけです。

最近あった話とか、最近見た物とか、そんな当たり障りのない楽しい話だけしてればお互い幸せです。

もう何も相談しません。

自己が崩壊しかねないことは何も相談しません。

クズなので。

 

クズだから早く死んだほうがいいと思うのですが、

クズなので死にたくないです。

自分が恥ずかしいけど、クズなのは変えられないのでクズのまま生きていきます。