私は理想主義だけどそれは、母親の影響だ。

 

母親は理想を語る。

「こういう風になった方がいいと思う。」

「この方がいい。」

「こういう風に生きた方が人生楽だよ。」

それは押し付けではないけど、正しいと思うことも多いけど、それができりゃ苦労はしない。

今までは私は、20年以上その語られた「理想」に同調し、賛同してきた。

語られるたびに、

「そうするわ。」

「やってみる。」

「そうだよね。」

でも実際そんなことできない。

母親と私は違う人間なのだ。性格も違うし、考え方も違う。

その理想に同調し続けてきたから、現実の自分とのギャップが激しい。

できないのに、できる、やってみる、と言ってしまうから、無理が生じる、自己が矛盾する。

極度の理想主義は母親の影響を受けたからだ。

 

「理想」とは、「成長」とは、嘘をつくことだと思う。

Aである自分を、Bだと偽って振る舞う行為だと思う。

 

それをここ数ヶ月で自覚してからは、自己を自己に取り戻すために、できないことはできないとちゃんと理解するようにした。

そのやり方は最適だと思うけど、私の性格上できない。

その考え方は正しいと思うけど、自分はそうは考えられない。

ちゃんと自己に嘘をつかずに、できないことはできない。いくら理想でも、それが最適でも、それはできないんだってちゃんと理解しようとするようにしてきた。

でも、

「私の性格上それは無理。」

と言ったら、

「そんなこと言ってちゃダメだよ。」

と言われた。

やれた方がいいのはわかってんだよ、そんなことはわかってる。

そんなこと言ってちゃダメなこともわかってる。

わかってるから折れそうになる。

適当に、「そうだよね、じゃあそうやってやってみるわ。」って答えたら、母親は満足するし、ぶつからないし、口論にもならない。

自分が感情的になって、自己嫌悪と自己反省に陥ることもない。

適当に同調していた方が楽だ。

でも実際じゃあそれを実行するってなったら、無理が出る。

そもそも自分はそんな性格ではないのだ。

なのに、同調しちゃったから、それをしなきゃいけなくなる。

やらないと、「なんでやってないの。」「早くやりなさい。」って言われる。

すごく無理なのに、自己じゃないことなのに、やらなければならなくなる。

それが正しいとわかっているのに、できない自分がいる。

余計自己嫌悪になる。なんでこんなことしなきゃいけないのってなる。

やりたくてやっていたはずなのに、いつしかやりたくないことに気がつく。

最初から無理が生じていたことに気がつく。

 

自分はこういう人間だから、それはできない。

そうは考えられないっていくら伝えても、

「変わらなきゃダメだよ。」

「変わる努力くらいはしないと。」

「そんな考え方じゃ生きていけないよ。」

「そんなこと言ってちゃダメだよ。」

って言われる。

自己を認めてあげることと成長することは矛盾している。

自己を認めてあげたなら、成長なんていらないはずだ。

ありのままの自分が素敵で、ありのままの自分でいいなら、成長して変わっていく必要なんて一つもないじゃないか。

理想と成長と現実はいつも矛盾している。

20年生きてきて、何度も何度も変えようと思っても変えられない性格は、この先何度変えようとしても変わんないんだよ。

 

自分が変えられないたびに幻滅させて、悲しませるのが苦痛だ。

成長だと認識して、理想を追おうと決意しても、現実の自分は結局理想にはなれなくて、なれなかったらその理想はただの「嘘」だ。

だからもう、理想を追うのも、成長を試みるのも、やめるべきなんだよ。

自分の性質、考え方、何がしたくて、何がしたくないのか、理想を排除して全部現実と向き合わないと、このままずっと自己がわからなくて、どんどん自己矛盾して、空っぽで、私の嘘で自分と他人を悲しませる。

 

なのに理想を語られる。

理想が成就しなかったら悲しむくせに、理想を目指し続けろという。

理想をどんどん叶えられるような性格の人間ならいい。

そもそもすでに理想に近い人間ならいい。

理想の人間でもなんでもない、むしろ理想とは正反対の人間である私に、理想を目指すように言わないでほしい。

理想を目指しても、理想にはなれないことを何度も何度も経験して、それでも何度も理想を追おうとしたけど、そんなことをしているうちに、もう10年以上道を違い、自己を失う。

その全てが嘘で終わって、みんなを悲しませる。

自分を幻滅させる。

何度も苦しい思いをする。

 

私の理想と他人の理想も違うのに、一体どこに向かっていたんだろう。

思考が足りないという。

それは正しいと思う。

でも、思考の仕方もわからないんだ。

思考したくないんだ。

多分自分のことを思考すればするほど、自分が空虚であることを理解してしまうから思考したくない。

でも思考しなければ、空虚が埋まっていかない。

苦しい。自己の空虚と向き合えば、何か変わるのか。

そもそも思えば、小さい時から私はずっと空虚だった。

なりたい夢も特になく、小学生の時はコンビニのトイレ掃除でも良いと思っていた。

ずっと笑い話にしてた。まだ知識のない小学生だからだよ、なんて言われていた。

でもこれは意外と私の本質だったのかもしれない。

人生をかけて成し遂げたいこともなく、特別好きなことも嫌いなこともなく、小学生の時からずっとそうだったのかもしれない。

高校を選んだのも、とりあえず頭がいいところだから、姉が行っていたから、という軽い気持ちで選んだ。

選んだ時は自分に行けるレベルじゃなかったけど、人生最大の苦痛である転校があったから、友達もおらず、自分のことは大嫌いで、学校生活は苦痛しかなくて、勉強くらいしかやることねえわってなったから頑張れただけだ。

その頑張ってる時期も、あまりに苦しかった。みんなそうなんだと思ってた、けどわからない。人より苦しかったのかもしれない。

自分と他人を比較することなんてできないから苦しみを比較することはできない。自分だけが苦しいわけじゃないって思ってたけど、自分だけが苦しかったのかもしれない。そんなものはわからない。

それも高校に入ってある程度普通の生活が戻ってきたら、ヤル気を失った。

あの苦しさから逃れられるなら、と脳内麻薬が出てしまった。頭が快楽を覚えてしまった。

そもそも無理があったんだ。勉強も努力も多分大嫌いで、小学生の時は、「母親が怒るから」勉強していただけで、やりたいこととか将来のことなんて何にも考えてなかった。

高校3年生の夏休みを過ぎても行きたい学部が決まらなくて、それでも大学は姉と同じ優秀な大学を志望して、きっとそこにも思考が足りなかったんだと思う。

でもしょうがないじゃないか。やりたいことも、行きたい大学も、はなからなかったんだから。

選ぶ基準がないのに、どうやって選べというんだ、どうやって思考しろというんだ。

高校を選んだ時と同じ感覚で、選んだ。

でも中学の勉強と高校の勉強はそもそも難易度が全然違う。

そんな軽い気持ちでできるはずもない。

かつ私の脳は快楽を覚えている。堕落している。

でも、身の丈に合わなくても、目指すだけタダだと、どうせやりたいことも目指すものもないんだから、高いとこ目指しときゃいいじゃん、なんて気持ちで。

まあ、うまくいくわけないんですけどね。

生まれてからずっと、私はずっと空虚だったんだ。

自分は夢や希望に溢れた若者であると思っていた。けど違った、思っていたかっただけだ。

本当は夢も希望も何も持たない空虚な人間だった。

そういう理想が自己矛盾を生んだ。

ずっとずっと無理が生じていた。

目を背けていた。今度はできる、今度はやれる。今度は変われる。

そうやって何度も何度も何度も言い聞かせ続けて、結局一度も変われたことなんてないじゃないか。

理想を掲げて、それが成長だと言い聞かせて、現実はそうならなくて、自分はそんな人間じゃなくて。

 

自己が破綻する。自己がわからなくなる。自分が本当は何がしたくて、何がしたくないのかわからなくなる。

自分の性格がわからなくなる。自分という人間の性質がぐちゃぐちゃになる。

理想と現実がどっちが自分だかわからなくなる。

 

早く死にたい。苦しまずに死にたい。

早く寿命で楽に、何も考える暇もなく、後悔する暇もなく、ただ虚無の中意識を失って、そのまま眠るように息を引き取りたい。

 

自己矛盾し続けて、空っぽなまま生きているのが辛い。

空っぽであることを認識できない時間は辛くない。

 

動画を見たり、漫画を読んだり、ゲームをしたり、絵を描いたり、小説を書いたりしてる時は、意識が他者に向かっていて、自分が空っぽであることを忘れられるから楽しい。死にたいなんて思わない。

 

でも誰かと話していたり、自分について考えていたり、自分の将来とか好きなものとか考えている時は、自分があまりにも虚無でクズでどうしようもないことを理解してしまうから、辛い。死にたい。

 

自分の話をしたくない、他人の話を聞いていたい。

自分の中がどうせ虚無ならば、自分にまつわる全てを失いたい。

ただ自分の外側のものを貪っていたい。

自分の中身も外見も失いたい。

でも、外側のものを享受したいから、視覚と聴覚だけは残してほしい。

味覚も触覚もいらない。

他者を考える思考だけ残してほしい。自己を考える思考を失いたい。

しかしそんなわがままなことはできないので、自己の存在ごとどこかに消え失せてほしい。

消え失せた事すら理解できない、一瞬で死なせてほしい。

 

理想のせいで自分が何がしたいのかわからない、と言っていたけど、そもそもしたいことなんてないんだろう。

だから、そのための努力や苦痛を目の前にして折れる。

だからきっと、最初から特別なことは、何もしないほうがいい。

特に人生をかけたり、誰かに相談しなきゃいけないようなことはしないほうがいいんだ。

自分でできることだけ、誰にも言わずに、誰も何も知らないまま、できるもできないも自分次第で、自分だけが知っているものだけに、取り組めばいい。

 

他人が何と言おうが、どれだけ自己を主張してもダメだと言われようが、何かに期待し理想を掲げ、目指すことはやめろ。

無理もするな、適当な努力でできる道に行け。最初から。

目指すだけタダ、の思考が他人を悲しませる。

そもそも友達もいない。

何か相談するのか家族くらいだ。

社会人になれば、家族に相談することなんて減る。

「私が相談しなければいいだけの話だ。」

生きるだけで精一杯になる。

何も考えずに済む。

ただ無心で働けばいい。

自己の空虚なんか、考える暇もなく働いとけばいい。

空いた時間は寝てれば何も考えずに済む。

寝ていない時間は自己と向き合わずに済むように、動画を見たりゲームをしたり漫画や小説を読んでいればいい。

自己研鑽や自己啓発や、自己成長なんて、しなくていい。

誰かに相談しなければいけないような経験も、する暇もなくなるし、選ばなければいい。

もし何かしても自己責任、自己責任のまま破綻していけばいい。破滅していけばいい。それが心地いいとさえ思う。

「うまくいかなかったら破滅してきゃいいじゃん。」

と言ったら、

「投げやりになっちゃダメだよと言われる。」

冷静にずっと考えて、緩やかに破滅していきたいと思った自分を否定される。

投げやりなのかもしれないと心が揺れる。

それでまた自己がわからなくなる。

自分がわからないから、自分が空虚だから、他人の言葉ですぐに揺れ動いて、さらに自己矛盾する。

でも大抵、自分が最初に思ったことは自分の本質なんじゃないかと思う。

だから、自分は投げやりになんかなっていない。

母親には理解できないかもしれないけど、私は本気でこう思っている。

いやもう、本気で思っているかすら、わからないんだ。

自分のことは他人がわかるはずもなく、でも自分もわからず、だからもう、消えてしまいたい。

死んだほうが絶対にいい存在だということだけはわかる。

 

でも、そんなこと考える暇もなければ、多分生きられる。

自分が虚無か、虚無でないかなんてどうでもいい境地に至れば、私は生きていられる。

ただ目の前に与えられたものを淡々とやればいい。

生きるために。

生きるために淡々と向き合えば、死にたくならずに済む。

 

他人に相談することをやめれば、自己が揺れ動くことはなくなるのはわかる。(学生の間は無理だけど。)

自己矛盾しなくなることもわかる、自己の空虚がなくなるかはわからないけど、少なくとも自覚せずに済む。

だから、きっとこの先も、どんどん他人に相談することはなくなる、他人と自己の内面に関わることを話すことはなくなる。

それは破滅を意味していることはわかってる。

他人の知恵や考えや力を借りたほうがいい方に行くのはもちろんそうだと思う。

それは理解している。

でも私はそれができる性格じゃない。

厄介な性格なんだ。

それをすればするほど、自分が自分じゃなくなるから、きっとしなくなる。

それでいい。そのまま破滅すればいい。そのまま死ねばいい。

どんどん追い詰められて、どんどん孤立して、どんどん破滅して、どんどん首を絞められて、そのまま死ねばいい。

死んでしまえ。早く身も心も無に帰してしまえ。

こんな虚無でクズで何もない人間、早く存在を消してしまえ。

死ね。

 

 

 

 

 

 

私このキャラ一番好きだわ

私も好きだよ、私も、私も、私も

私こういうこと一番嫌いなんだよね

いやみんな嫌いでしょ

 

 

私の好きなものはみんな好きだし私の嫌いなものはみんな嫌いで。じゃあそうなんだって思って生きてきた。大抵の人間はおんなじような生き物なんだって。じゃあ私ってなんなんだよ。個性なんかないじゃん。私は負けず嫌いです?君より負けず嫌いなんてこの世にいっぱいいるわ。私は明るいです?明るいやつなんかいっぱいいるわ、個性じゃねえよそんなもん。

 

そんなふうに考えてると私には何一つ個性がない。私らしさ何んてもんは一つもないんだよ。どうせ姉の下位互換だし。能力云々だけじゃなくて性格だって中途半端で姉のなり損ないなんだよなあ。じゃあ性格診断ってなんだよ。くそつまんねえ、クソの役にも立たねえ。

 

と思って10年くらい生きてきた。だから、私の考えること全て多くの誰かがすでに考えたことのある薄っぺらいものだと思っていた。

 

なのに、他人と同じような人間のはずなのに他人と会話してて妙に噛み合わない。自分が異端に思える、社会に適合できない、周りと考えてることが違う。生きづらい、かもしれない。私は他人と違うことは嫌いじゃない。自己があると思えるから。だけど自分が他人と違うとは思えない、なのに生きづらい。両方の嫌なとこだけ総取りで生きづらい。自分が異端と思うのは自分の願望であって実際の私は多くの人間となんも変わらないただのモブに過ぎない。辛いけどそれは自覚しているのに、他人と違う生きづらさだけ押し付けられるのはちょっと辛い。

 

でも最近は、私が当たり前だと思っていることが、みんなもそう思っているんだろうと思っていることが、ほんとはそうでない可能性を感じてきた。なんでみんなが当たり前にやってることができないのだろう。やりたくないのだろう。それは、みんながあたりまえにやっているのではなく、みんなやらないでおこうと思っても自然になってしまうことなんじゃないかと。それが私は人と違うだけなんだよ。みんなは勝手に出てくるものが私は出てこないだけだ。人と違うことは大好きだ。だけど、私が人と違うと思っているのはうぬぼれで、本当は人と同じでなんの変哲もない一般通過モブなんだと思っていた。思っていたけど、なのにこんなに生きづらい。私は人と違うことを認めるべきだ。「人と違う」は特殊能力を持っているなどではさらさらなく、言ってしまえば何かしらの障害を持っているということなんだが、別に私はそれでもいい。バリアだろうが特殊能力だろうが、正直なんでもいい。

 

私は人と違うんだって思えることが救いで、私は私なんだと思える。自己を認識できる。違うことはなんでもいい。ただ、私は人と同じなんだ自惚れるな。って発想だから生きづらさだけが辛い。

 

私は人と違う、私という自己を持っている。だから生きづらい。私という自己を貫くために、多少の生きづらさは致し方なし。そんなふうに思えれば楽になれそうだ。

 

しかし社会からはどんどん逸脱するかもね、知るかそんなもん。社会不適合で何が悪い、と私は思うが。

人にどう思われるかばかり考えてきた人生でした。親や姉が言ったことは全て正しいと思っていました、先生や先輩が言ったことは全て正しいと思っていました。本やブログに書いてあることは全て正しいと思っていました。もし自分と意見が異なったのならば、間違っているのは私の方だと。私の経験不足と知識不足と勉強不足と、思考力の足りなさが原因だと。だから、人にすぐに影響を受けてきました。人の言ったことが正しいと思ってしまうのです。きっと私はすごく洗脳されやすい人間なのでしょう。
 
年下と関わるのはすごく苦手です、今まで自分より下の年次の人と関わった経験がほとんどありません。そのせいかもしれません。家族の中でも末っ子で、父は勉強ができて真面目、母は地頭が良くて頭の回転が早くて、姉は勉強ができて思考力が深い。浅くて薄っぺらくて馬鹿なのは一番年下の私だけです。頑張って頭が良くなろうとしました、頭のいいふりをしようとしました。けれどそんなことはできないのです。小中学生くらいならちょっと真面目にやっていれば頭良くはなれますが、徐々に徐々に大人になるにつれて、ボロが出てくるものです。私は私が何を言っても、馬鹿な人間が浅い知識で吠えてるだけの戯言のようにしか思えないのです。だから、自分の意見を言うのが馬鹿らしくなって、恥ずかしくなって、言えなくなるのです。
 
だけど、馬鹿でもいいから自分だけは自分の意思を信じてあげなければならないと思いました。いくら母が、父が、姉が、友人が、先輩が、教授が、私の周りの人間全員が「それは最悪だ」と言っても、私が最高だと思っているならば「最高だ」と言わなければならないのです。そこで私が、「最悪かもしれない」と思った時点で私はまた自分に嘘をつき、空虚な心で、自分の思い描く道から外れた道を歩く羽目になってしまうのです。きっとその道は、私の周りの人間から見たら比較的真っ当な道に見えるでしょう。私が「最高だ」と言えたならば、「あなたが最高だと思うならそれでいい」と言ってくれる人が少しは出てくるでしょう。だから、私だけは、私に嘘をついてはいけないのです。いわば試しているのです、「それは最悪だ」と言われて「最悪かもしれない」と思ってしまった瞬間、私の意思は説得力を失うからです。確かに私の意思は存在するのに、ないものとして扱われてしまう。だから空虚になるんです。なんだっていいんです、なんだっていいから、どれだけ反対されても、私の意思は正しいと主張する強さが必要なんです。
 
きっと私は最初から迷ってないのです。迷ってないのに、人がどう思うか考えてしまうから、迷わされてしまっているだけです。そんな生き方をしてきたから人は私に意思がないと思っています。けど私には意思があります。もしぶつかって、その人と一緒にいられなくなったら、一緒にいなきゃいいんです。とても優しくて自分にはもったいないくらい素敵な家族だけど、私が意思を貫くことで一緒にいづらくなったのなら、疎遠になってしまえばいいんです。いつか家族が死ぬ時、あるいは私が死ぬ時、もっと一緒にいればよかった、疎遠になんてしなければよかったと、きっと後悔するでしょう。でも、どちらか選ぶしかないんです。選択肢が一つしかないと思っている現状の方がよっぽど悪だと、そう思いませんか。
 
もっと素直に生きればいいと思うんです。強情なら強情になればいいんです。負けず嫌いなら負けず嫌いになればいいんです。隠さなくていいんです。その時その場所で、人が何を思うかを考えてしまうから、時と場合によって自分の性格が変わり、意思が変わってしまう。結果私と言う人間がどんどんわからなくなり、私の精神が乖離し、最後には虚無感でからっぽになるのです。だから、素直に生きるべきだ。初めて転校した時の経験のせいで、私には小学生の時から猫かぶり癖があります。転校前はわんぱくリーダーだったのが、猫かぶりして静かで落ち着いた子になってしまいました。2回目の転校でも同じことをした結果、自分自身がわからなくなって、たくさんの自分自身を制御できなくなって、破綻し始めて、自分がわからないから諦めて自分を作らなくなりました。自分を作らなくなったので、自分という人間がどんな人間なのかわからなくなってしまいました。
 
そんな私が自分自身を取り戻すには、素直に生きるしかないのです。猫を被らないように、人がどう思うかを気にしないように、意識して自分のままの自分を曝け出すしかないのです。その集積がきっと「私」です。すごく性格が悪くて人から嫌われる「私」がそこにはいるかもしれません。多分、そうなったらとても辛いと思います。でも今まで自分をさらけ出してこなかった罰なのです。自分の素と周りの人間との折り合いをつけることを十数年してこなかったツケが回ってきたんです。そんな、嫌な奴が私だったとしても、その素を自覚できただけマシだと思うんです。無知の知ではないですが、素を自覚して初めて、いいところを残して、悪いところを直すことができます。いいところも悪いところもわからない、その場凌ぎを繰り返す状態では、ずっと空っぽで、生きづらいままです。

就活に思い悩んだから死ぬわけではありません。むしろ、仕事に関してはどう転んでも私は未来に希望を抱いているのです。ただ、就活がきっかけになったのは確かです。私が死ぬのは、就活を通じて、自分の性格や、自分のやりたいこと、やるべきことと向き合った結果、死んでしまいたいと思ったからです。
 
約四半世紀生きてきましたが、ただの一度だって自分の将来や人生と真剣に向き合ってきませんでした。そんな人間が、ようやく頑張って向き合うとしているわけですが、自分が嫌になります。なんの方向性もなく、なんの夢もない自分が生きている意味などないなと思うわけです。自分の性格を認識しようとしてもわからないのです。私のやりたいことも、人生をかけて成し遂げたいことも、わからないのです。社会に貢献したいなんて一ミリも思いません。やりたいことが思い浮かぶには浮かぶのですが、薄っぺらく、自己中心的で、「本当にやりたいことなのか」と言われたらわからなくなります。
 
ただ正直死にたくはないです。私は、今少しでも楽しいことがあるのなら死なないと、そう思って生きてきました。まだ見たい映画もたくさんあるし、明日投稿されるyoutubeの動画だって楽しみです。やりたいゲームだって、読みたい漫画だって、行きたい場所だって。まだ死ぬには世の中に楽しいことがあふれています。しかし、それは私の周りのことであって、私自身にはもう生きている意味はないように思えるのです。
 
姉と自身の性格や人生について話したのですが、姉の話は私の考えと非常に近いものでした。私自身の意思などどこにあるのでしょう。私は私の意思を持っていると思っていたけど、それはきっと姉の意思だったんでしょうね。結局私は、姉の真似をするおもちゃに過ぎないのです。姉に憧れ、姉の真似をし、姉に影響を受けて生きてきた私は、自身で考えることを放棄してきたのです。そのくせ姉のようなすごい人にもなれず、姉のような努力家にもなれず、姉が抱いていた人生の苦しさに寄り添うことすらできず、そんな私に生きている意味があるわけないでしょう。それを自覚したので死にたいと思いました。姉は何も悪くないです。
 
何も考えずに生きるのはすごく楽で、楽しいです。でもその代わり、向き合って考えようとした瞬間、向き合ってこなかった莫大な時間がのしかかってきて、虚無感でいっぱいいっぱいになります。逃れるために、また、考えるのを放棄します。きっとそのまま死ねれば楽なのでしょう。我に帰る前に死にたいんです。いつか破綻する前に、楽しいまま死んでしまいたい。
 
私が死にたいのは耐え難い苦痛が原因ではありません。ただの虚無感です。いじめを受けているわけでも、家庭環境が悪いわけでもありません。むしろ幸せです、とても楽しい毎日です。そして、未来もきっと明るい。けど私には私の意思がない。昔から感じていたことですが、私の精神は私の中にないのです。ふわっとすこし宙に浮いた場所にあって、自分のことを自分のことだと思えないのです。それは中学生で転校した時に、毎日が苦痛すぎた結果、その苦痛からなんとか逃れるために生み出した私の処世術なのですが、もう私の精神を私の中に引き戻すことはできないみたいです。からっぽなんです、もう10年近く。寝たり食べたり、面白いものを見たり新しいことを知ったり、そういう本能的な楽しさを享受することはできます。でも、思考がないんです、自分自身を思考することが。からっぽなんです、虚無なんです。自分が虚無であることを忘れているうちに死なせてください。
 
でも死にたいは嘘です。まだ楽しいことがたくさんあるので死にたくはないです。それに死んだら家族が悲しむのはもう、それは痛いほどわかっているので死にたくはないし死なないです。でも死にたいんです。この気持ちを表現する言葉が「死にたい」しかないんです。この人生の中で死にたいに近い感情を抱いたことは一度もないのですが、今のこの心境を一番よく表す言葉が「死にたい」しかないんです。何か、いい言葉を私が知らないだけかもしれません。死にたい、しかいい言葉が見つからないので死にたいと言っていますが、死にたくはありません。世の中で、大した理由もないのに死にたいと言っている人の気持ちを、今までは全く理解できず、むしろ馬鹿にしていたりイラっとしていた節があったのですが、きっとこんな気持ちだったのだろう、あるいはこれのもっとひどい状態だったのだろうと、今ではわかります。きっとそういう人たちも「死にたい」しかいい言葉が見つからなかったのかなと思います。